〈1〉 神宮式年遷宮から考える建築行為/マテリアルの移動
僕がまず着目するのは式年遷宮に置けるマテリアルの移動である。
下記『Wikipedia「神宮式年遷宮」』より抜粋
〈用材〉
遷宮においては、1万本以上のヒノキ材が用いられる。その用材を伐りだす山は、御杣山(みそまやま)と呼ばれる。御杣山は、14世紀に行われた第34回式年遷宮までは、3回ほど周辺地域に移動したことはあるものの、すべて神路山と島路山、高倉山という内宮・外宮背後の山であった。その後、内宮の用材の御杣山は第35回式年遷宮から三河国に移り、外宮の用材の御杣山は第36回式年遷宮から美濃国に移り、第41回式年遷宮から第46回式年遷宮までは伊勢国・大杉谷を御杣山とした。この伊勢国大杉谷は、徳川御三家の一つ・紀州徳川家の領地である紀州藩にあった。しかし、原木の枯渇による伐り出しの困難さから、第47回式年遷宮から、同じ徳川御三家の一つ・尾張徳川家の領地である尾張藩の木曾谷に御杣山は移された。以後、第51回式年遷宮のみ大杉谷に戻ったものの、300年以上にわたり木曾谷を御杣山としている。明治時代には、木曾谷を含む尾張藩の森林は国有化された。明治時代後期から大正時代にかけて、木曾の赤沢をはじめとする地域に神宮備林が設定され、樹齢200年から300年の用材の安定提供を可能とする計画的植林が行われ始めた。第二次世界大戦後、神宮備林の指定は外されたものの、以後も遷宮用材の主な供給地となっている。神宮では、1923年(大正12年)に森林経営計画を策定し、再び正宮周辺の神路山・島路山・高倉山の三山を御杣山とすべく、1925年(大正14年)または1926年(大正15年/昭和元年)から、三山へのヒノキの植林を続けている。遷宮の用材として使用できるまでには概ね200年以上かかるため、この三山の植林から生産された用材が本格的に使用されるのは110年以上後の2120年頃となる。また、この計画は、400年後の2400年頃には、三山からの重要用材の供給も目指す遠大なものである。なお、内宮正殿の御扉木について、本来の様式通りに一枚板とするためには、樹齢900年を超える用材が必要となると試算されている。2013年(平成25年)に行われる予定の第62回式年遷宮では、この正宮周辺三山からの間伐材を一部に使用し、全用材の25%が賄われる。
さらに、明治100年記念として神宮が購入した宮崎県・鹿児島県の記念林は、当初の目的は財政補給であったものの、ヒノキの生産に適していると見られることから、三山および瀧原宮の神域林とあわせて、用材の供給源となることが期待されている。
式年遷宮の際に解体される旧殿に使用された用材は、神宮内やその摂社・末社をはじめ、全国の神社の造営等に再利用される。例えば、内宮正殿の棟持柱については宇治橋神宮側鳥居となり、さらに関の東の追分の鳥居となる習わしである。また、外宮正殿の棟持柱は宇治橋おはらい町側鳥居となり、さらに桑名の七里の渡しの鳥居となる習わしである。
着目すべきは、三点ある。
一つは、これまですべての式年遷宮において使用される用材がどこから来ているのかが明らかにされているという点。もう一つは、式年遷宮が終わった後、解体された材が転用される場所が二代先まで決まっている点である。この二点は、式年遷宮で建てられた社だけが終着点なのではなくて、膨大な量のマテリアルの組み合わせで成立する建築が持っている関係性の網をどこまで追えるか、あるいはどこまで持続させることができるか、ということを確かに実践している。三つ目は、この形式が1300年もの間持続しているという圧倒的な事実である。
〈2〉 神宮式年遷宮から考える建築行為/祭
さらに、式年遷宮においては、社を建立するという建築行為に関係する行為が、30回を超える祭として形式化されている。下記のような祭が実際に20年かけて行われる。
下記『Wikipedia「神宮式年遷宮」』より抜粋
山口祭│用材を切り出す御杣山の山口にある神を祭る儀式。
木本祭│心御柱にする木を切り出す前に、その木の神を祭る儀式。
御杣始祭│御樋代(御神体を納める容器)にする木を切り出す行事。
裏木曽御用材伐採式│御樋代木は裏木曽でも切るため、その安全を祈願する。
御樋代木奉曳式│木曽から切り出された御樋代木を伊勢到着後両宮境内五丈殿まで運び入れる儀式。
繰り糸はじめ式│愛媛県西予市の製糸工場にて、御神宝・御装束に使う生糸の生産開始にあたり行う。
御船代祭│両正宮および別宮の御樋代を納める御船代の用材を切り出すにあたり行われる儀式。
御装束神宝御料織初式│京都府京都市上京区にある織物工場で、御装束・御神宝の織り初めにあたり、祝詞奏上・雅楽奉納・清祓などを行う。
御木曳初式│御木曳行事の皮切りとして両宮正殿垂木などの重要な用材を、特定の「神領民(江戸時代以前の伊勢神宮領地の住民)」が運搬する儀式
木造始祭│造営工事の開始にあたって作業安全を祈る儀式。
御木曳行事│御木曳行事の皮切りとして両宮正殿垂木などの重要な用材を、全神領民が運搬する儀式
仮御樋代木伐採式│旧殿から新殿まで御神体を遷す際に御神体を入れる「仮御樋代」と「仮御船代」にする用材を切り出す儀式。
鎮地祭│新宮建設予定地で作業安全を祈る儀式。一般の地鎮祭に相当。
宇治橋修造起工式│橋の架け替えを前に工事の安全を祈願する。
仮橋修祓│仮橋完成時に安全祈願のお祓いをする。
宇治橋渡納│架け替えられる宇治橋の最後の通行を儀式化。
宇治橋萬度麻奉下式│宇治橋解体前に擬宝珠内に納められている萬度麻を下げる。
宇治橋渡始式│橋の安全祈願。橋を守護する饗土橋姫神社で祈願した後、萬度麻を擬宝珠に納める。
立柱祭│正殿の柱を最初に立てる儀式。
御形祭│御形(正殿の妻の束柱の装飾)を穿つ儀式。
上棟祭│正殿の棟木を上げる儀式。
檐付祭│新殿の屋根の萱を葺き始める儀式。
甍祭│新殿の屋根を葺き終える儀式。
お白石持行事│宮川河原から採集した「お白石」を御木曳同様に陸曳・川曳で運び、正殿用地に敷き詰める行事。
御戸祭│新殿に扉を取り付ける儀式。
御船代奉納式│御船代を正殿内に納める儀式。
洗清│新殿内を洗い清める儀式。
心御柱奉建│心御柱を新正殿床下に立てる儀式。
杵築祭│新殿敷地を撞き固める儀式。
後鎮祭│新殿敷地の平安を祈る儀式。
御装束神宝読合│遷宮に合わせ作り替えられた御装束と御神宝を読み合わせる儀式。
川原大祓│「仮御樋代」・「仮御船代」・御装束神宝や遷御参加者を祓い清める儀式。
御飾│殿内装飾。
遷御│御神体を旧殿から新殿へ遷す儀式。
大御饌│新殿において、初めて大御饌を奉る儀式。
奉幣│天皇から奉られる幣帛を奉納する儀式。
古物渡│旧殿内の神宝類を新殿の西宝殿に移す儀式。
御神楽御饌│御神楽に先立ち大御饌を奉る儀式。
御神楽│天皇から派遣された宮内庁式部職の楽師が御神楽などを奉納する儀式。
このように式年遷宮ではただ建築をつくるのではなくて、建築をつくる行為や要素が引き連れる関係性を意識化するためにこれだけ多くの建築行為やそれに付随する行為が祭として形式化され、継続されているのである。現代における上棟式にあたる祭はもちろんのこと、木を切り出すための山に入るためのお祭や、庭に蒔く石を敷き詰める祭や、神様が引っ越しされる時に使用される仮の社の用材を切り出す祭、儀式で使う装束のための生糸を生産する時の祭、それらを、多くの手間と人と時間をかけて行うのである。大工技術だけではなくて、伊勢神宮という建築を取り巻く関係性の網を、祭によって意識化し、保存し、後世に伝承していく、そのシステムの蓄積は「建築を流動状態として捉えること」による思考展開と驚くほど酷似している。さらにいえば、伊勢神宮では式年遷宮以外でも五穀豊穣の感謝祭にあたる神嘗祭を代表として日常的に毎年1500回を超える祭が行われている。日常が持っている関係性をなるべく意識化しておく術を祭によって体現しているのである。
「建築をつくるという行為には単なる形だけではなくて、これだけの関係性が詰まっているのですよ、その関係性の網は、何も建築に限らず、あなたの日常すべてに関わっているのです、だから、自分で完結しようとせず、関係性の中で生かされていること、そしてその関係性の網には、時間軸もあって、だから過去に起こったすべての出来事も未来に生まれるだろう子孫も、丸ごと尊敬して生きなさい。」そうお伊勢様がいっているように僕には聞こえる。
上記のような建築を流動状態として捉えることが実践されている建築の始原を紹介したい。伊勢神宮における神宮式年遷宮である。広義での伊勢神宮の所在地は三重県内の4市2郡に分布する125の社宮を「神宮」と総称しているため分散型の配置となっているが、狭義には太陽を神格化した天照坐皇大御神(天照大御神)を祀る皇大神宮(内宮)と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮(外宮)の二つの正宮を指す。伊勢神宮は2013年に、式年遷宮を迎えた。式年遷宮とは125社の内摂末社を除く内宮外宮含め56棟を20年毎に全く同じ形の社を隣の敷地に建て、20年毎に神様を移し続けるという現在まで1300年間続けられている神宮最大の行事である。この20年に一度の「建て替え」について、マテリアルの移動と祭という二つの視点から、建築を静的な固定状態ではなく動的な流動状態として捉えることによる思考展開の実践としての神宮式年遷宮を見ていきたい。