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僕の、石膏ボードの小さな気づきからスタートした「建築を流動状態として捉えること」の現代における意義は、果たしてどこにあるのだろうか。科学者・鈴木健が2013年に上梓した『なめらかな社会とその敵』という21世紀における予言所的な書籍を参照しながら筆を進めていきたい。

“いわばインターネットとコンピュータの歴史は、生命史を逆回ししているようなものだ。より原始的な方向へ回帰し、その複雑さを増しているのである。” ※1 とあるように、この書籍において著者は、情報技術によってこれからの社会システムはより複雑で、有機的な生態系そのものに近づいていくという想定の元、“生命は自己維持するネットーワークに過ぎない”※2 としたシステム理論であるオートポイエーシス理論を軸にして、情報技術の発達を経験する人類の、所有、私、国、といった我々の思考基盤となる概念が今後「なめらか」に融解し、“複雑な社会を複雑なまま生きる※3 ことを可能にする、そしてその変化に対応する政治制度、貨幣制度、軍事制度はいかなる代物であるべきか、というアクロバティックで誠実な立論を進める。“情報技術という新しいアーキテクチャの登場によって、ルールは書き換え可能なのである”※4 という著者の宣言は力強い。
生命は自己維持するネットワークに過ぎないという著者のオートポイエーシスの解釈は、生命は「膜」と「核」からなる個体ではなく、自己維持するネットワークシステムそれ自体であるという点において、あらゆる事象に対しての認識を「個体」から「ネットワーク」へシフトさせる。この認識の変化をまずは追っていきたい。

※1  勁草書房『なめらかな社会とその敵』鈴木健 p186
※2  勁草書房『なめらかな社会とその敵』鈴木健 p25
※3  勁草書房『なめらかな社会とその敵』鈴木健 p3
※4  勁草書房『なめらかな社会とその敵』鈴木健 p240

『なめらかな社会とその敵』から考える
  動的な社会

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〈2〉 私という概念の変化
まず個人、私という概念が「個体」から「ネットワーク」へ変化する。“私がもっていると思い込んでいるものは、じつは私に関係のあるネットワークに濃淡をもって偏在している。「私」というのはその中で濃いだけの存在にすぎない。”※6 という一文にあるように、著者は、個人という概念が既存社会から勝手に与えられたもので、自分が私と思い込んでいる単一の「もの」としての私は、“じつは私に関係のあるネットワークに濃淡をもって偏在している”という解釈を提出している。この文章における私という名詞は、あらゆる事象への認識をシフトさせる上で、あらゆる名詞(国、会社、学校、家、あなた、蝶、etc)に置き換え可能である。

〈3〉 所有概念の変化から求められる新しい制度設計
また著者は個体認識の変化に伴い、所有概念もより動的でなめらかにシフトすると予言する。“所有の概念は、貨幣や投票という行為が成立するための基盤を形成している。その所有概念が揺らぎ、より動的なものとして認識されると、それに伴い貨幣や投票も動的にならざるをえない”※7 とあるように、所有概念の変化が、さらに新しい貨幣システム、投票システムの構想の必要性を召還すると述べ、具体的には、「分人民主主義における伝搬委任投票システム」、「伝搬投資貨幣」という具体案を紹介している。細かな説明は割愛するが投票行為や貨幣交換行為が情報技術によってより細かく、よりダイレクトに、より相互にどこまでも関係していく、その相互作用の成果を複雑なまま享受できるような新しいシステム、とでもいおうか。これらのような性質を持った具体案は政治や経済の分野のみならず、医療や福祉、建築、スポーツ、あらゆる分野で構想されるべき類いのものであると言える。


※6  勁草書房『なめらかな社会とその敵』鈴木健 p170
※7  勁草書房『なめらかな社会とその敵』鈴木健 p170

〈4〉 動的な世界へ
以上のような認識の変化、新しいシステムを実現するために引き起こすべき世界観として著者は以下のような提言を行っている。少し引用が長くなるが、確信を捉えた重要な、この書籍の総まとめとも受け取れる提言であるため、ご一読頂きたい。
“社会を建築するとは、単に制度をデザインすることではなく、その中で起きる人間の認知システムや世界の見え方に変化を引き起こすようなメディアをつくりだすことにほかならない。
では、どのような世界観を引き起こすべきなのだろうか。それは2つの想像力である。想像力という言葉は多少弱すぎるきらいがある。むしろ、2つの身体性の変化というべきかもしれない。
 第一に、他者の立場に立つこと、あるいは他者を自分の身体の延長として感じることである。その社会にいる人々は、自らを皮膚に覆われたひとつの身体としてだけではなく、ソーシャルネットワーク上をどんどん広げていって世界全体に近いところまで感覚を拡張し、そしてまた個体レベルにまで戻ってくることが自由にできる。また、個体レベルから下に降りていき、自分という存在がひとつではなく、多様な細胞たちの集積であり、多くの欲望と主体の塊であることを認識する。それはあたかも、チャールズ・イームズ(デザイナー)の「パワーズ・オブ・テン」を日常世界で実感できるようなものである。
 第二に、たしかなものなど何もないという感覚である。たしかなものがあるという感覚が社会的に集積すると、その幻想を信じた結果として大きな破綻を生み出すことになる。たしかなものなど何もないという感覚とは、存在を感ずることを通じて非存在に想いを馳せ、非存在によって存在を想像する、いわば「うつろい」の感覚といってもよいだろう。生成と崩壊を自明とみなすこと、所詮は世界全体を引き受けることなどできはしないと諦観すること、想像力のもつ力の限界を感じること、これらの認識は「うつろい」の感覚によって生じる。
 第一を空間的というならば、第二は時間的である。いわば、社会的新体制の拡張と収縮を自在に可能としつつ(空間的)、その身体感覚の限界と非不変性を感じる(時間的)。この2つは互いが互いを強化しあい、ひとつの時空間的感覚を生み出す。”
※8


自分という実感はどこまでも拡張/伸縮可能なネットワーク空間であり、そうした実感を通したいかなる存在もうつろいいく時間を有している、そうした意識をこれからの世界観として著者は提示している。僕は、この発言に全面的に同意する。建築においてはまさに「建築を流動状態として捉えること」がこの世界観にフィットしていると考える。試しに上の一文「自分という存在はどこまでも拡張/伸縮可能なネットワーク空間であり、そうしたいかなるネットワーク空間もうつろいいく時間を有している」に建築を当ててみよう。「建築はどこまでも拡張/伸縮可能なネットワーク空間であり、そうしたいかなるネットワーク空間もうつろいいく時間を有している」。これはまさに、「建築を流動状態として捉えること」における、建築個体を超えた関係性の網の意識と、時間概念の導入に他ならない。時間の止まった個体としての建築ではなく、時間を含んだネットワークとしての建築へのシフトが、なめらかな社会に求められているのだ。


※8  勁草書房『なめらかな社会とその敵』鈴木健 p212

 

〈1〉 インターネットの登場による個の解体
著者は、コンピュータに代表される情報技術の登場が与える我々の認識への影響について以下のように記している。
“私たちが皮膚の境界をもってひとつの個体としてみなしがちなのは、皮膚の内側の細胞同士の相互作用の密度が、別の個体の細胞との相互作用に比べて大きいからである。ひとつの脳をもってひとつの心とみなしがちなのは、ひとつの脳の内側同士の相互作用の密度が大きいからである。個体の内側同士のほうが相互作用が強いという前提条件が崩れてしまえば、こうした常識は脆くも崩れさる。コンピュータの登場によって、物理層と認識層の間に万能のミドルウェアが提供されることにより、個体同士を超えた相互作用の可能性がつくりだされる。ある個体の細胞と別の細胞が強く相互作用するようになれば、新しい知性のかたちが生み出されるかもしれない。その姿はあるときは多細胞生物となり、またあるときは多細胞が合体してひとつの細胞となるかのようでもある。”※5
著者は、この世界におけるあらゆる相互作用の抽象化としての個体認識は、コンピュータという“万能のミドルウェア”の登場によって、あらゆる相互作用を複雑なまま認識でき、個体を超えて相互作用を図ることが可能となる複雑なネットワーク認識に変化していくとしている。これは決して技術的な話だけではない。こうした変化は、我々の認識自体に影響を及ぼす。今まで個だと思っていたものが、個を超えて関係を持つ可能性を有し、ある時は多細胞生物として、またある時は一つの細胞として、その認識が変化する、そういう有機的な世界の捉え方へ、私たちの認識自体がシフトしていくのだと著者は指摘しているのだ。

 

※5  勁草書房『なめらかな社会とその敵』鈴木健 p175


 

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