なにせ、僕が通っていた大学院では、山本理顕、北山 恒、飯田善彦、西沢立衛、という4教授を筆頭(2010年当時、現在は山本理顕に代わり小嶋一浩(2016年逝去、小嶋の後任は山本理顕、妹島和世、大西麻貴と2017年3月2日付で発表)、飯田善彦に代わり藤原徹平、北山 恒に代わり乾 久美子がプロフェッサーアーキテクトを勤める)にして数々の著名な建築家が教鞭を振るっているわけだし、建築をつくることの世界を切り開く建築家たちのを受けることが出来たのだ。非常に恵まれた環境にいたと思う。彼らからは、資本主義社会に覆われた建築家をめぐる世界はのっぴきならない状況にあるのだという危機感と、マイノリティとして生きる覚悟と、建築への信頼と、未来の豊かさを建築で構想することの大切さを学んだ。石膏ボードの値段よりもよっぽど壮大で、夢があって、生きる活力が生み出される、そういう話が連発する場所に僕は浸っていた。とても得難い時間だったと思っている。だが、浸りながら、いつもどこかに違和感があったのは、自分の設計課題の成績が悪かったからだけではない。どうしても、建築をつくること以外の建築に関係することが気になってしまっていたのだと思う。例えば建築に関係のない人が、建築を見たり、壊したり、使ったり、動かしたりする、そういう建築家がつくること以外の「建築」に関係あることが世界にはたくさんあるはずで、それに対して建築家が何かしらを考える必要もあるのではないかという思いが、建築家が建築をつくることの素晴らしさを実感すればするほど、強まっていった。あるいは、これまで建築家が考えてこなかったことを考えてみたい、という単純な思いから、でもあろう。

対極の意味を有しているという点において、建築家がつくること以外の建築に関係あることの最たるものが建築をこわすことであろう。何故ここまで何も考えてこなかったのか自分でも不思議なほど、こわすという行為は建築に深く関わっているし、考えるべきことも多い。今日本の廃棄物の中で建設業のゴミの割合は20%近くを占めている。※1  建築を社会的な存在と捉えるのなら、建築することを社会的な存在として押し上げたいのなら、エネルギー資源の限界が近づく21世紀を生きる私たち建築家は、いつまでも30年で建て替わってしまう新築を建て続けることだけに注力しないで、あるいは持続可能な新築の姿を追求することだけを目指すのではなくて、建築の解体や減築、増築についても歴史に位置づけ、建築の意匠と結びつけて、建築家の言葉を与えていくミッションを抱えているのではないだろうか。

ただし、僕はこれから(日本は人口も減るわけだし)新しくつくることをやめて、こわすことだけにもっと意識を向かわせるためにこの論考を書いているわけではない。あくまでも、建築をつくることと同等にこわすことを押し上げることで、その両者の間にある関係性を明らかにし、建築行為によってできること、意識されるべきことのチャンネルを一つでも増やすことが目的である。そうすることで、建築をつくることの価値が逆説的に、あるいは相対的に高まることを期待している。
そもそもだが、建築をつくる/こわすことについて少し基本的なことを考えてみたい。両者にある関係性を明らかにするには、相違点と共通点を洗い出す必要があろう。それぞれ新築と解体を例に挙げてみよう。建築をつくるためには、材料を確保し、運び、基礎を立ち上げ、組み合わせながら固定していくことが必要とされ、設計図通りに素材が組み上がった時点で竣工となる。建築をこわすためには、構築物を重機でぐしゃぐしゃに、あるいは移築転用などの場合は丁寧に分解し、素材毎に分けて(例えば産業廃棄物と木材を)、トラックに乗せてそれぞれの処理場へ持っていくことで所謂解体は完了される。
ここで、僕なりに両者を見つめた時に共通点として認識できることは、「マテリアルを動かす」という行為によって構成されているということである。(筆者がここで素材という言葉ではなく、マテリアルという言葉を使うのは、所謂目に見える物質、建材としての素材という意味だけではなくて、建築に関係する他の要素、人や、慣習、歴史といった、コンテクスト全般を含意させたいからである。)こう考えると相違点はむしろ消え失せる。そう、両者は移動するという地平においては全く同じ行為なのだ。建築に関係するマテリアルを動かす行為、つまり移動について僕は言葉にしていきたいと考えている。あるいは、移動そのものが建築であるということかもしれない。そうすれば、新築も、解体も、増築も、減築も、一つの敷地や竣工という枠組みをを超えて、同じような言葉と存在意義で語ることができるのではないか、そしてそれは、今建築にできることとして考えられていることとまた違った価値を与えることができるのではないかという期待が僕にはある。

 

※1 環境省『産業廃棄物排出・処理状況調査』

つくることとこわすことのあいだ

1

[fig1]
石膏ボードが山積みにされた解体現場。
©403architecture [dajiba]
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「石膏ボードは買うときはとても安いし便利だけど、解体して捨てる時は同じくらいの値段がかかるんだよ」
僕が浜松で事務所を構える前、2010年の冬だったと思う、空洞化著しい市街地の空き室の改修現場[fig1]を見せてもらった時に、不動産の人から聞いた言葉だ。

当時、大学院まで建築設計を学んできた僕にとって、その石膏ボードに関する些細な言葉は、聞き流されることなく、それでいて衝撃というよりもぽかんとしてしまうほどに宙を浮いていた。その違和感についてよくよく考えてみると、僕は大学院まで勉強してきたのは、建築をつくること「だけ」であったということに行き着いた。建築雑誌を眺めてみても、設計課題に打ち込んでみても、仲間と1/1でインスタレーションをつくってみても、先生に話を聞いても、先人の知恵が詰まった本を読んでも、建築をつくることに関わること以外の情報を受け取ることはできなかった。
単純にいえば、建築をこわすこと、こわし方について、何も知らないというか、考え方を知らないで過ごしてきたのである。

 
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