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大学での経験した都市へ向かう建築家の態度、伊勢神宮という建築の始原、なめらかな社会という全く新しい社会コンセプト、目の前の建物をこわすこと、釘抜きの形状、施主さんとの対話、知的経験も身体的経験も含めて、そのすべてが、動き、流れる建築のかたちという自分なりの建築の捉え方に寄与してくれた。何か順序立てて作戦を立てたわけではないし、先にどの知識や経験があったのか、その相互関係は確かにあるが、学ぶ順番を意識していたわけではない。とにかく、その動的な建築観に向かって、あらゆる知識や経験が、ほとんど自動的に統合されていったような感覚がある。このような実践が可能な環境というのは、あるいは、その実践の結果できあがった環境というのは、つまり浜松という都市は、僕にとって特別なものとして映る。ノスタルジアに浸ってはいないが、僕にとって明らかに浜松は特殊だ。モノセレモニーズの取り組みにおいて、僕はあくまでも建築家として少しの、しかし大切な縁をきっかけに鹿児島に招聘されたわけだが、僕は従来の静的な建築観に寄り添うのではなく、これまで培ってきた動的な建築観を鹿児島で転用してみようと考えた。もう少し踏み込んでいえば、その動的な建築を鹿児島にインストールすることで、どうすれば自分にとっての浜松のような特殊な場所をもうひとつ「狙って」つくることができるかというチャレンジでもあった。もし浜松のような場所を狙ってつくるようなプロジェクトができれば、住宅を一つ建てるのとは違う関係を僕が鹿児島と築けるはずだし、動的な建築によって一つのプロジェクトが持っている関係性の網を最大化することができれば、鹿児島の街に対して僕が与える影響も従来の建築設計とは違った広がりを見せるだろうという確信があった。そして、なにより、そのような都市と僕との関係は、大変豊かに思えた。

〈1〉 モノセレモニーズとは
モノセレモニーズとは、芸術に触れたい人、思い入れがあるモノ、改善の余地のある開かれた場所という三つの要素を同時期に公募し、それらを結びつけ、読み替えとリデザインによってそれらをマッチングさせ、プロジェクトとして立ち上げて、一定期間芸術祭として市民に開放するという複合的な参加型プロジェクトである。[fig1]

例えば、

【A】    モノ | 捨てられない幼稚園の遊具
【B】    人 | 公募で参加したアートに興味がある鹿児島大学の学生さん
【C】    場所の悩み | ホテルのフロントにチラシ用の棚がほしい

を結びつけて、【B】さんが、【A】を【C】に転用するためのリデザインを設計[fig2] ・施工[fig3]・設置[fig4]するというものだ。

[A]を解体する前は供養祭[fig5・6]を、【C】に納品する際は誕生祭[fig7]を行い、それを市民に芸術祭として公開するという流れを持つ、複合的な「セレモニー」ともいえる。

祭の仕組みを積極的に取り入れるというのは式年遷宮から学んだことだ。
一つ一つのイベントの流れを積極的に形式化することで、このワークショップ自体の他の場所での実施可能性と、歴史的な文脈を引き入れようと試みた。結果的に、成果として6つのプロジェクトfig8 [モノセレモニーズDATA]が「納品された。つまり僕にとっては「建築」のプロジェクトが一気に6つ立ち上がったのだ。このようなプロジェクトの枠組は、マテリアルの流動、渦としてのプロジェクト、こわすことから学ぶ、想像力を二つもつ、パラレルワールドを生きる意識という浜松での実践から得られたキーワードをきっかけにして生まれている。

〈3〉 浜松で学んだことの「転用」
その前提の下、まず考えたのは、マテリアルを動かして創作を行なう枠組みをつくるということだ。何かをつくるというワークショップというよりも何かをどこかからどこかへ動かすという感覚を参加者の方に持ってほしかった。要するに、一つのプロジェクトの中で、動かす中継地点に創作行為があり、403が天井を床に転用したようなことを参加者も体験できるワークショップという枠組を用意したのである。前の場所から次の場所へ動く際の「調整」をデザインする、その創作行為を成立させるためには、中継地点の前後への想像力を同時に駆使する必要があり、想像力を働かせるためにはそのトリガーとなるための情報をなるべく多く持っておくことが肝要だ。創作の実作業の中では、まず解体からスタートする。大切なモノを預かり、丁寧に解体することでその仕組みを理解し、その上で次の場所に持っていくための調整の設計を参加者は行なう。このプロセスは、〈三展の格子〉のように、まずつくりたいものが先にあって図面を引く作業とは真逆のプロセスであり、今ある資材を前提とした設計行為という意味で通常の設計デザインよりも条件が厳しいといえるかもしれない。具体的なカリキュラムとしてはまず、自分たちが浜松で活動しているのと同じく、実際に「クライアント」のような存在を設定することにした。モノや場所、人を公募しそれらを結びつけるプロジェクトと説明したが、場所を提供してくれる人もその場所をどうにかしてほしい「クライアント」であり、モノを提供してくれた人もそのモノをどうにかしてほしい「クライアント」である。参加者は一つのプロジェクトで「クライアント」を二人相手にすることになるのである。そのクライアントは公募で集めることにして、顔が見える存在として参加してもらうことになった。結果的に、参加者は12名[モノセレモニーズDATA]、モノの提供は14個[モノセレモニーズDATA]、場所の提供は6カ所[モノセレモニーズDATA]、と、合計30余りの固有の要素によってプロジェクト全体が立ち上がることとなり、そのそれぞれがモノセレモニーズを通して新たな関係を結ぶことになったのである。しかし、僕の経験としては一人のクライアントだけでも難しいのに、二人を同時に相手にするのはさらに至難の作業だ。そのベストな組み合わせを考えるべく、まず参加者は全てのモノと場所の情報をインプットしなければならない。まず集まったモノ自体について、どこでどのように誰にどの程度の期間使われてきたのかを知る必要があり、そのためにモノの持ち主にヒアリングをする。且つ、その行き先の候補にはどのような場所があるのか、その場所についてもよくよく理解しないといけないので、場所の運営者にもヒアリングをする。その上で組み合わせを考える。つまり、モノの成り立ちと受け入れられる場所に対して、想像力を二つ同時に働かせる必要があるのだ。参加者は、最適な組み合わせを自身が考え、このモノとこの場所をこのように結びつけたらいいんじゃないかという発想を基点にして、設計作業と解体・施工が一体となって進んでいくのである。このようにして、参加者の想像力が、集まった要素が持つあらゆる関係性の方向に飛び出し、モノセレモニーズ自体がいくつもの関係性をかき回す渦となり、その渦から派生した6つのプロジェクトもまた、モノや場所を新たにつなぐ渦として、その役割を担ったといえる。

〈4〉 鹿児島から学んだこと
僕にとっての鹿児島はこのプロジェクトを通して、結果的に、浜松の街に対する感覚に近い都市になった。自分のフィールドとして都市が存在し、そこに例えばプロジェクトの種がいくつもあるというような感覚である。実際、今回のプロジェクトを通して、複数の場所から違う悩みの相談を持ちかけられたり、参加者の人達が浜松に来てくれたり、少なくとも住宅を一つ設計するだけでは、レクチャーを一度行なうだけでは得難い関係性の数と力強さを僕は鹿児島に持つことができたのである。ここまで説明してきたような動的な建築観の実践の中で、関係性の網を意識すると、こうした渦の実現や、参加者がモノと場所を結びつける新たな形を思いつくまでに至るプロセスが、無限の可能性の中からたまたま一つ実現した偶発的な状況であるということを実感できる。この実感は、関係を認識する上で非常に重要だ。このような偶発性をプロジェクトに積極的に取り込めたのは、自分でなるべく決めないということを実践し続けた結果である。何故僕が決めないか、その理由は『なめらかな社会とその敵』でも言及されている“たしかなものなど何もないという感覚”に求めることができる。自分で何かを決めても、社会は何も確かではなく、その決定は簡単に覆ることを僕は身体で理解している。例えば浜松で独立することや、動的な建築観を築いたこと、鹿児島でモノセレモニーズという複合イベントを運営することになった(当初の依頼は下見、打ち合せを含め一週間程度のワークショップだった。)こと、その成果物として6つのプロジェクトが納品されたことは、自分を含めた周りの状況からほとんど自動的に導き出された判断で、自分で決めたという感覚はほとんどない。自分の判断よりも、他者の有り様よりも、西田のいう“純粋経験”を信じているのだ。その結果として、幾つもの渦とそのタイミングでその場所でしか生まれ得ない縁が、それこそ渦のような人知を超えた偶発性で、実現したのである。やりたいことを実現させることに固執すると、それ以外の可能性を縮小させてしまう。しかし、かといって、構築への意思を諦めているわけでは決してない。やりたいことの外側にある、自分の脳より面白いことを引き受ける柔軟さと、それをもう一度自分なりの基準に引き上げる構築への意思の両方が、こうした渦の実現に必要なのだ。要するに縁を大事にするというのは、感情的で、刹那的なものではなくて、あくまでも建築や創作への態度として冷静に対象化する方が全うなんじゃないかということだ。こういう出会いがなかったら今に至っていない、奇跡的でドラマティックだね、みたいなことではなくて、自分の範疇から生まれた計画に対して批判的であり、他者への信頼を持つなら、結果的にどう転んでも縁が実現されているに過ぎない。これは縁や、つながり、絆といったヒューマニスティックな消費を避けるための、現代における創作態度の話である。
プロジェクトという言葉を僕はよく使う。403の活動においても、作品ではなく、プロジェクトという言葉で説明するのだが、作品というと、確固たる作家がいて、完成を迎えるという、完結したイメージがあり、その解釈や作品という創作行為は作家の中で閉じられている印象を受けるが、プロジェクトというと、複数人で行なったり、始まりや終わりが明確でなかったり、その目的やプロジェクトへの関わり方もまた参加する人によってそれぞれでいいし、そのプロジェクトのアウトプットは建築でもアートイベントでも本でも、何でもいいというような広がりを感じるからである。そういう意味で、鹿児島でのモノセレモニーズは紛れもなくプロジェクトであった。自分が都市に対して何かを行為する時に、プロジェクトという道具はとても有効に働く。建築のプロジェクトか、アートのプロジェクトかはほとんど関係がないように思える。実際に僕が主導したのはモノの転用のデザインだし、結果的には建築物の提案にはなっていない。あくまでも僕にとっての建築観をプロジェクトに投影した成果である。アウトプットの種類は重要ではなく、どのくらい丁寧に多くの要素と関わることができ、それらを動かす渦をつくることができたのかこそが、僕にとっての浜松のような都市との関係をつくることにつながっていると思う。その意味で、この一連の取り組みは、分野にとらわれず開かれたものであると考えている。
このモノセレモニーズと、このテキストの執筆を通して、僕は根本的には、この渦のようなプロジェクトのつくり方、そうして生まれた渦がその中心にいる人間やその周りの環境に対してどのような影響や変化を与え得るか、それがこれからの社会にどのような影響を与えるか、さらにその変化によって建築や私たちが何を学ぶかを考えたいのだと気づいた。要するに、人間と都市の関係というものについて、考えてみたいのである。自分は建築の文脈を背負った建築家として認識されているが、その前に一人の人間である。あくまでも建築が思考の土台になるし、私にとってのツールは概念的にも物理的にも建築だ。それを携えて、鹿児島のような都市がもうひとつ増えたら、あるいは浜松のような場所が誰かにとっても増えたなら、そういうパラレルワールドを想起するチャンスを一つでも多く生むことができれば、僕たちの住む世界は今よりもっと多くの価値や考え方を許容できると信じている。このモノセレモニーズは、モノを媒介にした、人と都市の関係の記述として広く知られてほしい。その記述された総体を僕は、「動き、流れる建築のかたち」として表現したのである。

動き、流れる建築のかたち
/モノセレモニーズ

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〈2〉 モノの生と死
「モノ」の生と死を扱うというコンセプトは、協働した会田大也さんに拠るところが大きい。会田さんは初回の打ち合せの際に、集落の閉じ方の話をしてくれた。ダムに沈んだ集落がどのようにその終わり方を迎えるかという時に、例えば集落の神社をダム上に引っ越したり、桑を置くという儀式を行ったりという話を聞いて、モノや場所に宿った命がどのように流転を実現していくかというアイデアを貰ったのである。会田さんも直感的にこのテーマに賛同してくれてプロジェクトの推進力となったのだが、大きな話をすれば、僕たちは今、日本社会が、経済的にも人口動態としても成熟していく只中に直面していて、モノや場所や、お金が、余り始めているという前提の共有がまずあった。例えば、僕の実家は、両親が新築した郊外の5LDKなのだが、今は三人兄弟全員実家を出て、三つの部屋が物置になっているし、以前二世帯で住んでいた祖父母の実家も、祖母が亡くなり、祖父が施設に入所したため、一軒丸ごと空家状態で大量のものと部屋がそのまま残っている。平均寿命が伸びているとはいえ、急速な高齢化が進んでいるということは、お葬式の数が増えるということであり、モノが余るということは、モノを捨てる機会が増えるということであり、場所が余るということは、建物の取り壊しが増えるということである。僕たちが生きるこの成熟社会では、あらゆるものが余り始めることは明白だ。それは新たにものを生み出すことの機会が相対的には減ることを意味し(資本主義の推進にはモノを生み出し続けなければならないというジレンマはあるが)、ゼロから新しいモノや場所を生み出したり、あるいは単に終わらせるだけではなく、「今既に生まれているもの」を前提として、その価値を、それまでとは違う環境にスライドさせ、同時に新しい命を吹き込むことがこれからの創造性の需要として求められるだろうという確信が、僕と会田さんにはあったのである。
あるいは、モノや場所に生と死を関連づけさせる、極端に言えば「人」のように命あるものとして扱うこうした倫理観は、上記したような現在にある正しい需要からだけではなくて、一世紀前を生きた西田幾多郎という哲学者によっても予言されている。
“我々が物を知るということは、自己が物と一致するというにすぎない。花を見た時は即ち自己が花となって居るのである。”※1
「主客同一」、「絶対矛盾的自己統一性」という謎めいた言葉を残した西田は、ある矛盾する事柄は突き詰めて考えれば実は同じことなんだよと僕に教えてくれた。私とは何か、他者とは何かという哲学的な問いを続ける中で、真実在とはその私や他者が分つ前に其処にただ在る状態で、彼はそれを純粋経験と呼んだと僕は理解している。この純粋経験とは例えばサッカー選手が信じられないほど美しいプレーをした後に「身体が勝手に動いた」と言うような類いの、我を忘れた「ゾーン」の状態を想像してもらえればよい。もはやそのプレーヤー自身がサッカーそのものであるかのようなプレー(例えばオランダの伝説的プレーヤー、デニス・ヴェルカンプが1998年のフランスワールドカップの準々決勝対アルゼンチン戦で見せた、走りながら後ろから来るボールを柔らかいトラップで脚元に置き、アウトフロントキックでシュートにまで至る一連の動作が思いつく)を純粋経験の状態、つまり真実在として、その地点から私たちの思考を眺めれば、主客も私も他者も隔てがなく、私だと思っていたものがあなたであり得るし、花と思っていたものが私であり得る、その逆もまた然りというわけである。私とは花、花とは私であり、人とモノの境は「そもそも」ないのだということを西田は教えてくれた。だからモノを主体に動きを考える、という今回のプロジェクトは、主語がモノであってよく、動いたり、生まれたり、死したりする。モノセレモニーズは、動詞として行為する主役に、人以外を据えるプロジェクトとしても理解されたい。


※1 岩波書店『西田幾多郎全集 一巻』 西田幾多郎 p76

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